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J鉄局の珍車ギャラリー

日本国有鉄道 B20形蒸気機関車

-大型ナンバープレートに込められた思い。-

私が鉄道マニアになったのは
小学校の五年生くらいだったでしょうか。
もともと旅行好きだった親父につれられて
SLの写真を撮っていました。
はじめはいわゆる撮り鉄です。
最初のうちはSLを撮影するだけの旅でも
親父はつきあってくれましたが、
お立ち台に三脚をしつらえてカメラ二台(つまりカラーと白黒)で迎撃撮影するようになり、
早朝から日没まで 移動するか、撮影するか
という過激な日程をくむようになってからは、
とうとう親父も音を上げ、
私は一人で鉄旅するようになっていました。

中学生になる頃には
キネマ旬報社の「蒸気機関車」という雑誌に
触発されて、撮影場所のみならず
形式にもすっかりこだわるようになっていました。
次第に車両そのものに興味を抱くようになった私は、北海道へ行くのなら
ここにしかいいないD61形を狙う
という具合になってゆきます。
そんな私を惹きつけてやまなかったのが、
B20形です。
当時鹿児島にしかおらず。
それも営業線には出てこないという箱入り娘で、
単に鹿児島に行くだけでは出会えない
という代物です。
当時、行き当たりばったりでも
事務所でお願いすれば、名前と住所を書いて
見学OKということは結構ありました。
しかしダメと断られることもあったのです。
鹿児島まで行くわけです。
その場で断られては元も子もない。
考えあぐねた私は往復はがきを
鹿児島機関区長さん宛に送り付け、
見学させてもらおうと考えました。
往信面にはB20を撮影したい思いを切々と綴り、
返信面にはご都合のよろしい日時を
書き込めるようにしました。
思えば強引なことをしたものです。
ありがたいことにお返事をいただき、
私は現役時代のB20形10号機を
撮影することができました。
その際、付き添ってくださった国鉄職員さんは
SLの投炭練習機の体験までさせてくださいました。
懐かしい思い出です。
さて、その時のものも含め
SLの写真のほとんどが失われてしまったのは
痛恨の極みですが、
幸い10号機は梅小路に保存されており、
こうして皆様にご紹介することができるのも
何かのご縁かと思います。

前置きが長くなりました。

それではB20形蒸気機関車についてご説明します。
形式の「B20」とは、
動軸2軸を有する(B型)の
運転整備重量20トンの機関車という意味です。
これほど小さな機関車は、
国鉄では極めて珍しいもので、まさに珍車です。

小さいだけではありません。
珍しいポイントはいくつもあります。

①;型破りの形式
蒸気機関車の形式について、
すでに知っておられる方は
「  」部は、読み飛ばしてください。

「C57 の場合、車輪をみると、大きな車輪が3つあり、その前に小さな車輪が2つ、後ろにも1つあります。大きな車輪は、ピストンにつながって動くので
「動輪」と呼びます。
C57の「C」はこの動軸数を
アルファベットで表したものです。
ABC…の順に123…です。
C57の動輪は3つなので「C」というわけです。
C57には「炭水車」がついています。
炭水車をもつものは50番代から形式をつけます。C57の場合C50,C51,C52…と続いて
8番目がC57というわけです。
炭水車がない場合、10番台から形式を付けます。」

よって…。
B20は炭水車をもたない動輪2つの機関車で、
11番目ということになりますね。
しかし、5500形から改造されたB10形は
存在するものの、B11もB18も存在しないのです。
ではなぜ20なのか。
運転整備重量が20トンであるという意味です。
名古屋臨海鉄道のND60形(自社発注機)が
60トン機であるのと同じです。

太平洋戦争開戦直後の1941年12月。
大手・中小の鉄道車両メーカーは国策によって
「車両統制会」を設立しました。
統制会の「小型蒸気機関車専門委員会」は
様々な規格形機関車を設計します。
これら10形式の構成部品は規格化され、
代替材料を用いたり、
少ない加工で使用することも考えられていました。
規格品を融通することで
生産力のUPを図ったのですね。
しかし戦時中の物資不足は日に日に加速し、
どのようなものがどれだけ製造されたのか。
実態はよくわかりません。
ただ専用鉄道や、軍工廠内専用線などに
供給された産業用機関車で
まともにこの設計の通りに
製造されたものはなく、
運輸通信省が製造した「乙B20」だけが
設計通りだったということだそうですです。
つまりB20 は、戦時中に規格生産された
産業用機関車の名を引き継いだのです。

ちなみに乙というのは軌間を表し、
「乙」=1,067mm・「丁」=762mm・
「戊」=610mmとなります。
外地での機関車製造を考えてのことです。

②;無い無い尽くしのB20
B20では飽和蒸気方式としました。
火室で作られた高温の燃焼ガスは、
煙管と呼ばれる数多くの細い管に導かれ
煙管の周囲に満たされている水から
蒸気を発生させます。
いわゆるボイラーですね。
そこで発生した蒸気は
上部の蒸気溜めのドームに一旦溜められ、
走行に使用される蒸気はシリンダーに送られ
エネルギーをピストン運動に変えます。
使用される蒸気は、
200℃の飽和蒸気でもいいのですが、
1910年代以降の大型機関車ではさらに加熱して
300-400℃の過熱蒸気を使用するのが普通です。
このほうが出力アップになり、
ひいては石炭の消費量を減らすことができるのです。
でもそのためには
過熱管を煙管に導き2往復させなければなりません。
B20では過熱管をなくし、その工程を省きました。
ボイラー強度を低く済ませるため
とする説もありますが、
ボイラー圧力は13.0 kg/cm²で9600形並です。
過熱蒸気方式を採用しなかったのは
構造を簡素化するためです。

画像をご覧ください。
ないといえば、前照灯がありません。
前照灯を点すのには電気が要ります。
普通 蒸気機関車には発電用の蒸気タービンがあり、
そこで電力を得ますが、
これを作動させるには
蒸気を配分しなければなりません。
それから、連結器のところには
パイプがぶら下がっているのがお約束ですよね。
これは牽引する車両を制動する
自動ブレーキのパイプです。
これもありません。
高速運転できるはずもなければ、
山に上るわけでもない。
せいぜい数量の車両を移動させるだけのことです。
機関車単機のブレーキでも制動可能
と割り切った ということです。
蒸気機関車のコックピットには、
蒸気分配箱がありメーターとバルブがずらり…。
複雑きわまりないそのメカニックな姿が
大きな特徴ですが、
B20はあっさりしたものです。
優秀な熟練工が徴用され、
人もいなけりゃあ 物もない…。
でも、とにかく
動くものを作らなければならなかったご時世です。
致し方なかったといえばそれまでですが、
そのこと自体決して簡単なことではなかった。
と申し上げておきます。

③B20、その後
1944年に5両、
戦後1946~47年に10両が製造されたB20は、
余りに小さいがゆえに
用途が構内入替に限定されてしまいました。
また、その生い立ちゆえに実用上問題が多く、
車齢の若いうちに多くが廃車されました。
ところが、国鉄の蒸気機関車が全廃された
70年代まで使用されたものもあるのです。
それが、鹿児島機関区の10号機です。
営業線に出て働くことはないのです。
通常なら車両扱いされない「構内作業用機械」
となってもおかしくないところです。
しかし「鉄道車両」扱いされ
車籍までも維持されました。

ここが大事なところです。

小さなボイラーに不釣り合いに見える
大型ナンバープレート。
これこそ、B20 10号機が鹿児島機関区に在籍する
機関車だという証でした。

実用性はともかく
「この子は、ウチの機関車だ。」 という意識を
鹿児島区の職員さんは持っておられたと思います。

ウチへ帰ったとき、
いつもお出迎えをしてくれる
カワイイ子がいるお方にとって、
その子は家族も同然です。
体調不良で動けなくなった「ウチの子」を
あなたは放っておけますか?
極端なたとえで恐縮ですが、
たいした活躍をしなくとも
B20は老朽化してゆきます。
小さくとも
オンリーワンの車体に適合する部品を調達し、
B20ならではの不調にも
対処してゆかなければなりません。
お飾りじゃあないんです。
ちゃんと動くように維持するということは
大変なことなのです。
でも他の機関車と同じく「ウチの子」なんですから
手を尽くすのは当然です。
車両扱いされず「構内作業用機械」となって、
ナンバープレートも外されてしまったなら、
10号機は生き残れなかった気がします。

それにしても国鉄というようなお堅い組織が、
こんな車両の存在を認めていたとは驚きです。

④梅小路の10号機
1949年に鹿児島機関区に移籍した10号機は
1972年に梅小路蒸気機関車館に収められました。
当初は動態保存機でしたが、
ほとんど動くことがないまま
1979年3月には車籍を失い
静態保存となってしまいました。
ところが、JR西日本発足15周年となる2002年。
梅小路蒸気機関車館の開館30周年記念事業の一環
として動態復元されることとなったのです。

2021年現在。車籍こそありませんが、
梅小路に在籍する大型機関車の移動などに
10号機は用いられています。もちろん、
あの大型ナンバープレートもそのままです。

10号機は今や梅小路のマスコット的存在ですが、
それだけで終わらせてはなりません。

10号機にはもう一つ、
太平洋戦争の忘れ形見であるという
大切なもう一つの顔があります。

無い無い尽くしの中で、
それでも何とか今できることを…。
という思いの中で生まれたB20 。

そんな10号機が、今なお 健在であるという奇跡を、もう一度見つめ直していただきたいと
私は思うのです。

参考文献:歴史群像 #161「日の丸の轍」File11              B20形蒸気機関車 2020.6
「蒸気機関車誕生」 松尾定行氏 2013.10