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J鉄局TOP>珍車ギャラリー>広島電鉄 652 被爆電車
652 広島駅付近 2006.3 広島電鉄 652 被爆電車本多立太郎さん(91)は、先日、最後の戦争出前噺を終えられました。日本全国47都道府県をくまなく巡り、20年に及ぶ講演に終止符を打たれたわけです。 もっと多くの人々にとりわけ子供達に戦争の貴重な体験を伝えていただきたい気持ちはあるのですが、 本多さんは1120回に及ぶ講演の度につらく悲しい思いをされてきたわけです。 上官に逆らえず中国人捕虜に銃剣を突き立てたこと。シベリアで抑留され悲惨な日々を送られたこと。 やっとのこと帰還したものの、待っていてくれているはずの彼女が東京大空襲で死亡していたこと…。 戦争が別れと死をもたらす愚かなことであることについて、風化させてはならないのはいうまでもないことですが、 本多さんには、よくぞここまで頑張って下さいましたと申し上げるべきでしょう。 さて、今回ご紹介する650形は、広島での被爆体験を持つ路面電車です。いまなお現役で活躍しています。 いよいよ戦時色が高まる昭和17年、国策により広島瓦斯電軌から、 交通事業を分離した広島電鉄が初めて発注した電車です。 昭和20年8月6日。広島において、1発の原子爆弾がもたらした惨禍については想像を絶するものがあるわけですが、 広電においても社員と動員された女学生を含め185人が死亡しました。 電車についても、在籍する123両の内、120両が全焼あるいは半焼となるなど、壊滅的な打撃を受けました。 参考文献にあげた「広島電鉄記念車両」のWebページに 被爆直後の650形の写真(2004.8に発見。現在原爆資料館にあり)が、載せられているのですが、 半鋼製の車体が見事なまでに焼き尽くされ、なんとか外形だけが残されているその様に、 絶句してしまいました。この中で生きたまま焼き尽くされた人々が居たのです…。 当時、最新鋭だった650形については、下の表で示したように被災しています。 しかし、とても復旧できないように思える車両も含めて、650形はすべて復旧します。 その中で最も早く現場に復帰し、活躍を始めたのが652だったのです。 一瞬にして燃え上がり、一面がれきの山となった広島の街で、一部区間ではありますが、わずか3日後に、 不死鳥のごとくよみがえり動き出した電車に、恐怖と絶望にうちひしがれた市民は、どれだけ励まされたことでしょう。 生き残った広島電鉄のスタッフは、被爆したなんとその日から焼け残った電車を本部にして、 包帯姿で、軌道、変電所などの復旧作業を始められたそうです。 爆心地に近い、浦上に車庫、工場を持つ長崎電軌について、復旧が遅れたのはやむを得ぬことですが、 被爆した電車が一つも現存していないのは残念なことです。それだけに今なお生き残る650形の価値は高いものです。 戦争の悲惨さを伝えるものとして、物言わぬ電車に、本多さんの代わりが務まるというものではありませんが、 平和を希求する思いは、日々忘れてはならないものです。 そういった点でも、日々、現役で走り続けている650形の存在はかけがえのないものです。 先日、653,654の2両が現役を引退したと聞きました。残るは651と652です。 末永く活躍して欲しいと思うと同時に、世界で唯一、被爆した経験を持ちながら、復旧し、 広島の人々を励まし続けた彼らを、原爆ドームに加え、世界遺産に追加登録して欲しい気持ちです。
1953 低床化 1975 ワンマン化 1982 方向幕大型化(電動) 1986 冷房化 これらの由来については、運転席後部にある 「650形電車の由来」に記載があります。 652 原爆ドーム前 付近 2006.3
参考文献;路面電車を考える館「広島電鉄記念車両」のWebページ Wikipedia「広島電鉄650形電車」のWebページ |
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