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J鉄局TOP>珍車ギャラリー>西日本鉄道 北九州市内線 1045 3車体連接車
連接車王国だった、西鉄北九州市内線私が、初めて西鉄 北九州市内線にに乗ったのは、昭和40年代後半だったと思います。まだSLが、ガンガン走っていた頃で、直方駅から周辺をざっとと見回しただけでも2.30台のSLがいたのではないか。 と記憶しています。 この筑豊地区から産出される石炭を元に発展した工業地帯も健在で、夜に、初めて九州入りした私の目に飛び込んできたのは、 宝石をちりばめたように輝く工場の夜景と、ライトアップされた若戸大橋の鮮やかな赤色とのコンビネーションでした。 そしてその翌日、北九州市内線に乗車したときも、これまた驚きでした。 とにかく電車が、来るは、来るは、45秒おき!!(砂津-大門) いやそれ以上だったような気さえします。 昭和44年に、大阪市電がなくなり、子供心にも路面電車は過去のものと思いこんでいた私は、 「九州は凄い、SLも路面電車も主役なんだ。」 と認識を新たにし、嬉しくなってしまったのを覚えています。 そんな私が、とりわけカッコイイ!と気に入ってしまったのが、連接車です。 後で調べてみると、3車体連接車まであるというではありませんか。 しかし、なんとしても見たいなあ。と思う割にはなかなかお目にかかれませんでした。 当時、情報が乏しかったせいもありますが、実はこの3車体連接車、結構問題を抱えていて運用も限定されていたのです。 正しくは、北九州線その成り立ちは…悲しいかな。平成12年11月折尾−熊西間が廃止され、熊西−黒崎駅前を残すのみとなりました。それも実際には筑豊電鉄の路線の一部というべき存在で、もう消滅していると言ってもいい状況です。 でも、北九州線は九州電気軌道が経営していた路線を引き継いだもので、 西鉄のルーツはこの九州電気軌道とされています。天神大牟田線よりも歴史があるのです。 本線に加え、戸畑支線、枝光支線の3路線で39.7kmもあり、小倉電気軌道由来の北方線を含め、 北九州市内の主要な交通手段でした。 北九州市内と一口に言いましたが、北九州市は、昭和38年に門司市・小倉市・戸畑市・八幡市・若松市の5市による合併により誕生した都市で北九州線は、市内線というより、各都市を結ぶ都市間連絡という役割を担っていたのです。 そのため専用線も多く、路面電車のわりには停車場間の距離が長いのも特徴です。 電車の設計速度も60km/h(ボギー車)と路面電車としては、高く設定されていました。 14年の長きにわたって増備された1000形(北)連接車戦後の混乱期を経て、昭和28年。1001AB がデビューします。私のお気に入りであるスタイリッシュな連接車です。 (写真右、1001A ダイエーの広告塔が時代を感じさせます。) 半鋼製車両ではありますが、デザインのみならず、 性能、仕様ともかなり練られたものです。 モーターは45kw×4、ツリカケ式ではありますが、 間接自動制御で、近代的な郊外電車と同じ仕様です。 部品の共通化も推し進め、保守の軽減をはかりました。 1021AB以降は全鋼製になるなどマイナーチェンジを重ねつつ、 昭和42年7月の1067ABまで、14年にわたって増備し続けることができたのも、しっかりした設計思想があったからでしょう。 しかし、私にはこのことが、皮肉なことに、北九州線の未来に暗い影を落としていたと思えてならないのです。 1000形には3車体連接車が7組存在します。 昭和38年のデビューで、車番は1045.1052-57の各ABCです。 別に形式を割り当ててもいいような気がするのですが、番号が飛び飛びなら、落成順というわけでもありません。 何故でしょう?実は既存の車両に、後からC車を組み込んだからなのです。 昭和37年の増備計画では、3車体連接車を北九州線(日車)と福岡市内線(日立)に1組づつ試作する予定でした。 しかし福岡市内線の1202ABに組み込むはずの1202C は、道路交通法のかねあいで認可が下りず、宙に浮いてしまったのです。 福岡市内線の1200形は、カルダン駆動の連接車である1000形(福)をツリカケ式に先祖返りさせたものです。 ただ出力が37.4kwのままだったため、これに付随車であるC 車を組み込むのは、やはりチョット無理だったような気がします。 そんなわけで、まだ出力に余裕のあった1000形(北)に転用することになったのですが、 1045が選ばれたのは、他でもありません、日立製でもっとも車番の若い車体だったからです。 さて1200形(福)より、余裕があるとはいえC 車を組み込むことが負担であることには変わりはありません。 少しでも軽量化するために、車体は短く、ドアも取り付けられませんでした。 3人乗務から2人乗務へという流れの中で、また扉を増やすということには、抵抗があったのかもしれません。 しかし、このことが、結局乗降時間の増大につながり、 ラッシュ時の救世主として登場したはずの3車体連接車が逆にお荷物になるということにもなったのではないでしょうか。 それでも、胸のすくような高加速で遅れを取り戻すというのなら、まだ許せます。 しかし標準品である45kwモーターのままです。パワー不足では、それもなりません。 尤も、古い電車が総動員されるラッシュ時では、多少の非力さはさして問題にならないかもしれません。 事実、3車体連接車は、ラッシュ時限定で使用されました。 …でも考えれてみれば、もったいない話です。 これでは働き盛りの若い車両を、旧型車同様に引退させてしまったのと同じことではないでしょうか。 苦境に立たされる北九州線その後、エネルギー革命により、石炭産業が斜陽化し、筑豊炭田をバックにもつ北九州の工業地帯は、その存在価値を失ってゆきます。また日本の産業構造そのものが、長大重厚型の素材産業から、技術力を総合させてゆくことで生き残りを探るその過程で、 北九州の工業地帯は、その大きな波に飲み込まれ、景気は停滞、人口は流出しました。 一方、かつての国鉄は、JRとなり通勤電車を増発してきました。 線形が圧倒的に有利なJRに都市間連絡としてのお株を完全に奪われ、 それでなくとも、減ってしまったお客をすっかり奪われた西鉄北九州線が消えてゆくのはどうしようもない歴史の流れのようにもみえます。 私は、それはそれで、確かにそういう点も認めはしますが、一番の理由は、マイカーによる乗客離れと思っています。 そして、その流れを食い止められなかった原因は、西鉄自体にもあったのではないかと思うのです。 1000形連接車は、デビュー当時、ツリカケ式とはいえ、実に優秀な電車でした。 しかし、あえて昭和30年代の後半から40年代にかけて、最も乗客が多かった時期に、つまり余力があった時期に、 次世代の3車体連接車を開発するべきだったのではないでしょうか。 乗客が、また乗りたくなるような電車を西鉄なら作れたと思うのです。 なまじ標準化してしまったことで、膠着してしまったことが残念でならないのです。 自治体も、存続に向け後押しをしてくれたと聞きます。 本当にどうにもならなかったのか…。 いまはどこの鉄道事業者も厳しい現実にさらされています。 特に北九州地区の厳しさは、他の地区とは一線を画するべきなのかもしれません。 また隠れたライバル事業者が、日本一のバス事業者”西日本鉄道”だった。ということもあげておかねばならないでしょう。 鉄道だけで生き延びるしか道のない事業者ではなかったことも、北九州線にとっては不幸なことでした。 昭和55年に北方線、昭和60年に戸畑支線、枝光支線、本線の砂津-門司間が廃止され、 平成4年の砂津−黒崎駅前間の廃止により、もはや北九州線は、本来の機能を失ってしまったといえるでしょう。 教訓は活かされた。−筑豊電鉄2000形3車体連接車−でも、西鉄の連接車は健在です。 もともと自前の車両を持たなかった筑豊電鉄ですが 福岡市内線の連接車を導入、これを3車体連接車として改造、 導入しました。 1045ABCの欠点であるC車の扉も取り付けられ、 パワー不足を補うためにモーターの出力もアップしました。 −教訓は活かされたのです。− S52には冷房化もなされ、攻めの姿勢が感じられます。 一方、車内にはTVを取り付け、 ブラウン管越しに、美女が次の駅を案内してくれます。 筑豊電鉄は西鉄の子会社です。 しかし、鉄道とともに生きるための会社です。 鶏口となるも牛後となるなかれ、 筑豊電鉄の活躍に、大いに期待する私です。
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