2005.12.10 UP のHPです。 | |||||||
___CR70−1 *2006.4北海道ちほく高原鉄道廃止ちほく高原鉄道は1989(H1).6にJR池北線を転換した北海道唯一の第3セクター鉄道です。 140kmもの長大路線でありながら、沿線人口は6万人(開業時)と少なく、厳しい経営環境の中、 自治体出資80パーセントというスタートは、やはり存続という現実問題にはついて行けなかったようです。 ちほく高原鉄道は廃止を決断。やめるからには傷口が拡がらぬうちにと廃止時期を早めようとさえしましたが、 国土交通省からたしなめられるという悲しい結末を迎えています。 そんなわけで2006年4月。ちほく高原鉄道は廃止されます。 存続という課題に対し、ちほく高原鉄道は手をこまねいていたわけではありません。 まずはスピードアップによる時間短縮。そして様々なイベント活動と努力の跡が見られます。 しかし明治以来の古い施設を引き継ぐが故に、施設の維持、保守には多額の経費がかかりました。 とりわけ人件費は、安全運行確保のためとはいえ大きな負担となりました。 ちなみに89年の営業収入(2億6千万円)を職員数(137人)で割ると一人あたり年間約187万円。 とてもこれでは、やってゆけません。列車を運行する経費を省いてのあり得ない計算でさえこれですから、 企業としては到底、成り立たないといわざるを得ないでしょう。 ではなぜ「ちほく高原鉄道」は発足したのか。 たとえ数年でも雇用を確保し、国庫より転換交付金を引き出すという目的だとするなら、それは何とも悲しい。 いや、それならもっと早くなくなっていたはずです。 地元の方々の熱意があればこそ、ここまで鉄道を維持できたと言うべきなのかもしれません。 努力のかいもなく、乗客数が減り、自治体がもう支えきれないとなれば、もう安楽死させるしかないのでしょう…。 いまさら何を言っても詮無いことではありますが、「ちほく高原鉄道再生プラン」がないわけではなかったのです。 もともと池北線は網走本線として池田から陸別そして北見へと開通してきた路線で、 石北本線が,全通したことにより、網走、北見へのメインルートを明け渡したという歴史があります。 しかし石勝線の開通により、道東のメインルートは、劇的にショートカットされました。 今や、千歳−北見間であれば池北線経由の方が近いのです。 転換後、快速「銀河」が運転され60分の時間短縮がなされました。 主に山岳地帯を走る石北線と比較して、池北線の線形は高速運転に適しているのです。 宗谷本線のように高速化すれば、まだまだスピードアップが可能です。 そして特急「オホーツク」を「スーパーおおぞら」に併結運転すれば、札幌−北見間3時間台だって夢ではないと思うのです。 伊勢鉄道や智頭急行のように特急が通過するだけの利用であっても確実な収入を見込めます。 しかし、このアイデアは石北線をとるか、池北線をとるかの二者択一です。 十勝、北見間に相応の需要がなければ、もう外野は沈黙するべきでしょう。 まだSL(9600形)が走っていたとき、私は、北海道周遊券で池北線に乗車しました。 とくに懐が痛むわけもなく気楽に乗車していたわけです。しかし別会社の鉄道線となった以上、 別料金を払わなければ、乗れないのは言うまでもないことです。 北見まで2590円!わざわざ乗りに来たとはいえ、「北見まで2590円也」の切符を買うときにはすこし思い切りが必要でした。でも、快速「銀河」に乗車し、正直「早い!」と感じました。乗った値打ちがありました。 あれからもう12年。もう、ちほく高原鉄道に乗車することはないでしょう。 でも北海道の山野が飛び去ってゆく、あのときの景色を私は決して忘れません。 参考文献;年鑑「日本の鉄道」別冊「第3セクター鉄道」 鉄道ジャーナル社 90.10
CR70−101 イベント用車両 |
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